伯樂雑記

政治やルールなどへの考えやぼやきを書きつけるブログです。

「戦国武将に学ぶ」ことに対する一考察

元のブログは移動しました。 https://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/171102

Twitterに共有していたので消すに消せず残している(申し訳ない)。

https://www.itmedia.co.jp/business/spv/2201/11/news056_3.html

 今回は窪田順生氏の、この記事について検討する。

 個人的には、「戦国武将に学ぶ」ことを掲げる著書の多くは、俗説や後世の創作に基づく武将の説明が多く感じる。俗説や創作は実例として教訓には出来ないだろう。

 また、現代とは価値観も大きく違うため、そのまま参考にすることは難しいだろう。エッセンスを取り出す必要がある。

 そのため、窪田氏の、「精神主義にのめり込んで目も当てられないほどの大惨敗を喫した「太平洋戦争」から学ぶことのほうが圧倒的に多いと感じる」という主張に私は賛同する。正確に言えば、「学び易い」のではないかと思う。

 ただ、「戦国武将に学べ」が「パワハラ文化」を作ったと感じる根拠には、問題があると言わざるを得ない。

 まず、戦国武将を「刃物や弓矢で殺し合っていた中世の軍人」や、「中世の戦争指導者」とまとめて評するべきではない。

 現代において「武将」とされる歴史上の人物には、大名も国人もいる。大名にも、守護大名の家系から出た者や守護代やさらにその下の身分から成り上がった者もいる。最も著名な「戦国武将」であろう織田信長は、守護代の部下織田弾正忠家の出身である。

 立場の違いによって、領民との接し方も変わってくる。大名であれば、国人との協力も必要になってくる。「軍人」や「戦争指導者」であればいいわけではない。

 また、国人の離反だけでなく、部下の裏切りも多くあったため、「自分の命が助かるためには容赦なく捨て石にしたし、気分次第で命を奪い、命令に従わない者はあっさり処刑した」と一概に言うことは不可能である。

 そして、その例として挙げられている「記録」にも問題がある。

 2017年2月7日の、山岸良二氏の記事を参考にして「織田信長パワハラは凄まじいもの」であり、「戦国武将」のほとんどは今でいう「クソ上司」であると窪田氏は主張する。

↓その記事

https://toyokeizai.net/articles/-/156244?page=4

 その記事の中の、「信長が、食べている餅を「お前らも食え」と馬糞が転がる路上にぶちまけ、部下たちが泥だらけの餅を貪った」というエピソードを、信長がパワハラを行った根拠として、挙げられているが、このエピソードは史実ではない。

https://twitter.com/1059kanri/status/1052682299190329344?s=21

 まとめ管理人(戦国ちょっといい話・悪い話まとめ管理人)氏のツイートにあるように、 信長が部下に泥だらけの餅を食わせたエピソードは、出典が『名将言行録』である。

 『名将言行録』は、1854年から制作が始まっており、信長の生きた時代よりも後のものである。信憑性の低い逸話が多く収録されており、生前の人物像を知ることは難しいだろう。

 他には、武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」を引き合いに出して、その言葉は人を「モノ」扱いしており、あくまで信玄は「自分や国を守るための耐久財、消耗品として大切にしていただけ」だとしているが、これは『甲陽軍鑑』にある逸話で、資料として再評価が進んでいるが、鵜呑みにすることは出来ない。

 次に挙げられているエピソードも信憑性が低いものである。

  窪田氏は、「戦国武将」の「戦略のゴール」は「君主が生き残る」ことと「国を守る」ことであって、そのために部下を犠牲にするのは当たり前であったとする。そして、戦国武将に憧れた社長が経営する会社は、社員が犠牲になるのは当然だという「パワハラ文化」の企業風土がつくられるのだという。

 しかし、その「滅私奉公のルーツ」が戦国武将にあるとして、挙げる戦術が「捨て奸(がまり)」である。

https://togetter.com/li/1598054

https://twitter.com/hirayamayuukain/status/1309046264277987329?s=21

https://twitter.com/kirinosakujin/status/1309466329598930945?s=21

  平山優氏や桐野作人氏のツイートからして、「捨て奸」と島津氏が結び付けられたのは後世のものであり、戦法自体「中世で編み出された」と言い難く、実際に用いられていたかは怪しいようである。

 最後に挙げられている楠木正成に関しては、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物であり、「戦国武将」の例とするべきではない。楠木正成が忠臣の象徴として、戦中の日本における過度な精神主義の正当化に使われたことは事実ではあろう。しかし、事例としては「戦国武将に学ぶ」こととは分けるべきであろう。

 以上で考察を終える。

 

 

 

 

  

 

女系天皇とサザエさんについて

サザエさん」の、磯野家の系図を用いて女系天皇を認めてはならないとする画像がネット上に存在するが、論として成り立っていないと私は考える。以下にその理由を述べる。

何も、皇室を一般家庭で例えることを不敬などと言うつもりはない。しかし、例える方法として不適当だといえる。

その画像では、磯野波平天皇、磯野フネを皇后として、カツオを皇太子として、サザエが即位する場合はピンチヒッターであり、タラオが即位すると「磯野家の皇室は途絶え、フグ田王朝が始まる」と論じられているが、そもそも、皇室の人間に名字は存在しない。もし「名字なし」が名字に相当するものだとして、磯野朝からフグ田朝に王朝が交代するのだとしたら、それは王家の名字の変化を意味する。名字が変わらなければ(マスオが磯野姓になれば)王朝が交代したことにならないはずである。事実、オランダ王家は女系継承であっても家名はオラニエ=ナッサウ家である。イギリス王家は、エリザベス二世の次の代から家名がマウントバッテン=ウィンザー家となるが、王朝名はウィンザー朝のまま変わらないと発表されている。

もちろん、氏や姓を与えていた立場として、「天皇は名字を持たない」ことは維持すべきだと私は考える。しかし、「名字を持たない」ことと、女系であることは両立出来る。このことから女系天皇であっても皇室を続けることは出来るというのが私の結論である。

フランスやスイスでの服装の制限について

スイスでは最近、公共の場での顔を覆う服装の禁止する法案が可決された。イスラーム教徒への嫌悪感から提案された法案にしか思えない。フランスでは前から同じような法律がある。

政教分離や女性の解放を理由としているらしいが、どうも的外れに思える。

服装に対しての政教分離が出来るのだろうか?極論を言うのなら、服を着ること自体を宗教と言うことも出来る。ファッションとの線引きはどうなるのだ?文明や文化には宗教性を完全に排することは不可能であると私は考える。フランスで尊重されがちな「表現の自由」に服装は該当しないのだろうか。ブルギニ(ムスリマ用の水着)もフランスでは禁止されているが、「肌を見せずに泳ぐ」ことは信教云々以前に認められてもいいと思うのだが.........。

もう一つと女性の解放という根拠についてだが、ムスリマの誰もが強制されて髪や肌を隠しているわけではないことは明白である。そもそも、「魅力的な女性という存在を男性の欲情から守る」ための教えであることは理解する必要があるだろう。

「また女の信仰者たちに言え、彼女らの目を伏せ、陰部を守るようにと。また、彼女らの装飾は外に現れたもの以外、表に現してはならない。」(日亜対訳クルアーン24章31節の1部より引用)

この「装飾」というものは、女性の美しく魅力的な部分のこととされる。(それが具体的にはどこを表すかは解釈が分かれる)

イスラームの教えをもとに考えられた服装を公共の場で禁じることは、一部の女性が自らを守るための服を着る権利の否定になるのではないのだろうか。

人が服装を選択する自由を不当に侵害すべきではなかろう。

まだいたのか

未だにQアノン関連の陰謀論が生き残っている。これ以上世論が混乱してしまうことを危惧している。論理的な反論によって根絶出来ないことが恐ろしい。ほとんど無駄だとは思うが、色々な陰謀論に反論していく。

①世界が悪魔崇拝者・小児性愛者・人肉嗜食家によって支配されている。

反論:世界の歴史の中で、宗教は大きな影響力を持ってきたが、サタン崇拝が力を持ったことはなく、悪魔と契約したとされた者は欧州では常に迫害対象であった。また、悪人の全てが小児性愛者でないことは自明である。小児性愛者が増えることは、種の保存の観点から考えてそこまで多くなるとは思えない。最後に、カニバリズムが悪影響を及ぼすことは知られているはずである。(狂牛病など) それを知っていながら人肉食を行っているなら、組織にマイナス面が多すぎる。

フリーメイソン、ロックフェラー家、ロスチャイルド家ローマ教皇、イギリス王室などが関わっている

反論:フリーメイソンとして政治の話をすることはご法度とされる。どうやって世界を支配する計画を立てるというのだろう。ロックフェラー家、ロスチャイルド家に関しては、歴代当主の実績でも調べれば色々な情報が出てくることは分かるはずであり、影の支配者であるならば、経歴を隠すことが下手すぎる。イギリス王室に関しても、立憲君主制の元に現在成り立っている。イギリスの議会制民主主義は政治に関与しなかったり、無関心だったり、権力を制限されたりした王がいてこそ存在していることをわすれてはならない。

冗長になるので一旦ここで切り上げる

コロナ対策への「問い」

指定感染症の指定感染症の指定を延長するらしい。どうしたものであろうか。経済を回しながら病床数を確保するためには5類相当にするか指定感染症そのものから除外すべきではないだろうか。確かに国民の感情は大切である。しかし、国民の感情のために国民の生活を犠牲にすべきではない。国民のために働くためには、時にマスコミからの批判に屈しない必要がある。大衆の「感情」が政治を混沌に陥れたことは歴史上多く存在する。(フランス革命然り、ナチス・ドイツ然り)

政治家の評価を感情のみによって行うことは危険である。その政治家が何を行うかを理性的に判断する必要がある。

「大衆」として何も考えずに同じ方向を向くことは楽である。しかし、(広い意味において)哲学すること、つまりは「問い」を持ち続けることが人間を人間たらしめると私は考える。

米国大統領選挙の陰謀論へ一言

未だに不正選挙等の陰謀論が生き残っているようだ。この現実に恐怖を覚えている。あまりにもリアリティが無さすぎて呆れるレベルの内容である。現実を見るべきである。(信じる方が困難だと思うのだが)既存のメディアを信用出来ないという気持ちは理解できる。だからといってそれ以上に信用性のないものをなぜ信じることができるのだろうか?信じたいことと現実には隔たりがあるのは当然のことである。現実を見ない生き方は主体性を事欠く。

「ピザゲート」の証拠がどこにあったというのだろうか。「ディープステート」が世界を操ることが可能なのであれば、自身の存在を隠蔽するのも簡単なはずである。陰謀と闘う存在だとされるドナルド・トランプ氏はなぜ差別的な発言を行う白人至上主義者なのであろう。(動機がどうであれ、香港やウイグルの弾圧に対する批判は評価する)

批判される人物がどうであれ、陰謀論による攻撃は卑怯である。

冷静さを失ってはいけない。

マスク義務化への反対理由

私がマスクの義務化に反対する理由は、そもそもの効果を疑問視しているからである。クラスターが発生した所で、「マスクをしていなかった」などと報道されるが、さほど変わらないようにしか思えない。何をどう考えてもウイルスはマスクにある穴よりも小さいという事実は変わらない。そのことはまず頭に入れておくべきである。マスクの着用を他人に求めるか求めないかに関わらず、その事実は頭に入れておくべきである。私の東大のマスクの効果の実験に関する見解はコロナ論2(出版:扶桑社/著:小林よしのり)と同様のものである。

そして、不用意に私権制限をすべきではない。私権制限の先例が増えてしまうと、国民のもつ自由権の重さを分からなくなってしまいそうである。太平洋戦争時の国民生活からも教訓を得ることは多いだろう。「自由」という権利は先人が勝ち取り今日まで受け継がれてきたものである。安易に手放すものではない。最終的な判断を他者に任せるのではなく、自らが決めなくてはならない。