伯樂雑記

政治やルールなどへの考えやぼやきを書きつけるブログです。

天皇と男性・女性差別とその地位と

時々聞く言説がある。「一般人男性は皇族になれない。だから皇室は男性差別なのだ」というものだ。男性しか天皇になれないことを、女性差別だとする主張への反論として用いられることがある。

書籍という形式で私が確認できたのは、宇山卓栄氏の『「王室」で読み解く世界史』ふわこういちろう氏の『古事記で謎解き ほんとにスゴイ! 日本』である。

問題とする事象の範囲が異なっているため、話が噛み合っていないと思われる。

「皇族女性が天皇になれない」ことの反論として「一般男性が皇族になれない」ことが挙げられている。

皇族女性と一般男性、天皇と皇族、対義語にもなっていないのである。

対比として持ち出すなら、皇族女性には皇族男性、男性天皇には女性天皇となるだろう。

一般男性が皇族になれる対象から排除されているというのなら、皇族女性が天皇になれる対象から排除されているともいえるだろう。

また、「一般女性が皇族になる」ことと、「皇族女性が天皇になる」ことを同質視することにも繋がりかねない。

規定上、天皇は皇族でない。その地位は皇族からも隔絶していなくてはならない。

天皇を一皇族にまで貶める言説であると私は考える。

感想『トランスフォーマー ビースト覚醒』

※注意:ネタバレあります。

 

 正直なところ、私が面白いと感じる部類ではなかった。一応のこと、私は1作目から3作目までのデザインやシンプルなストーリーが好みだったことは述べておく。

 今回、最も残念に思ったのが、副題に「ビースト覚醒(Rise of the Beasts)」と銘打っている割には、マクシマルの出番の少ないことである。ストーリーの軸が、オートボットの初登場キャラクター,ミラージュと人間にあり、マクシマルが目立っていない。前作、『バンブルビー』においても、若者とトランスフォーマーの出会いは描かれた。「主人公がトランスフォーマーと出会う」という展開は、かれこれ1作目、4作目(ロストエイジ)、そして『バンブルビー』と3回描かれている。『ビースト覚醒』は、そうした描写のために時間を割きすぎているのではないだろうか。ミラージュとノアの友情と、マクシマルやユニクロンの関わりといった題材を同時に処理しようとして、味が薄くなっているように感じた。

 また、トランスフォーマーの変形した姿が、遠くから眺めるようであり、よくわからなかった。変形を「魅せる」点においては、マイケル・ベイ氏の方が優れているように思う(もちろん戦闘描写のわかり易さは今回のほうが上である)。特にマクシマルだ。変形するのが後半も後半、そして変形後の姿がオプティマス・プライマル以外よくわからない。エアレイザーに至っては、人型を見せる前に死んでしまった。1~3作まででも、変形を見せずに出番が終わったトランスフォーマーもいる。しかし、ビーストモードで死ぬのは、ビークルモードしか見せずに死ぬようなものではないか?

 これは好みの要素が強いのであるが、デザインに関して私は懸念を抱く。後半、ノアがミラージュのパーツから作られたスーツを纏うのであるが、明らかにデザインが他のトランスフォーマーから浮いている。そして、これまで人間の活躍とも大きく違っていた。主人公およびその周りの人間が、小回りを効かせて敵を翻弄するか、米軍がその兵器技術を投入するといった形で描かれてきた。今回は一人間の力が異様に増大していたように思える。正直なところ、2作目『リベンジ』の後半でオプティマス・プライムが瀕死のジェットファイアーからパーツを貰って強化されるパターンと似通っており、「この展開見た」という感情が先立ってしまった。

 音楽の使い方は、これまでのシリーズと一線を画すものであった。何せ戦闘中にヒップホップを流すのである。歌詞入りの曲を戦闘中の挿入歌として用いたのは、今回が初であろう。それまでの実写トランスフォーマー作品と毛色が違って、好みではなかった。

 そして、「リブートではない」とプロデューサーは語っているわけだが、もはやどうにもできないレベルの設定矛盾を起こしているように思えてならない(もちろんバンブルビーの声に関する1作目と5作目の矛盾は重々承知であり、不満でもある)。

 https://theriver.jp/tf-rotb-bonaventura-interview/

 5作目で地球はユニクロンと言われながら、今回はユニクロンは地球を食べようとする存在であった。また、オプティマス・プライムが地球に来る時期が、1作目と矛盾している。ラストで帰る術を失ったオートボットであるが、どう繋げるかがわからない。サイバトロン星でのトランスフォーマーの姿も、1作目のプロトフォームと大きく違うのが少々不満である。

 そして、リブートしないのだとすれば、もはや市街中心の大規模戦闘は描けないのではないだろうか。トランスフォーマーが多くの人間に認知されたのは、1作目における市街の戦闘である。それ以前の時代であれば、小規模のものにならざるをえない。私としては1~3作目までのデザインが好きである。もはや叶わないとは思うが、リブートとしたうえでどちらの世界の物語も完結することを願う。

 

 

専門家はどこだ!

かつて砂漠だったこの土地は、今や大都市となった。専門家を重用する政策を行っており、技能に優れた者はあらゆる所にいる。

ある日のことだ。くたびれた服を来た男が街にあらわれた。真昼間だというのに、ランプを手にもっている。長旅だったようで、だいぶ息切れをしている。

「専門家はどこだ!」

男は叫んだ。道行く人に片っ端から尋ねている。「専門家はどこだ!どこにいるんだ!」男に怯えて、早々と逃げ去った人もいる。、

ある人は笑って言った。「この街は専門家ばかりだ。一体何の専門家を探しているんだ?」

「生き方だ。正しい生き方の専門家のことだ。私は如何に生きればいいのだ。」

ある人はさらに笑った。そして自分を医者だと名乗った。

「そうか、なら私に聞けばいい。私は医者だ。生き方の専門家だ。」

男は目を輝かせた。無造作な髭があるにも関わらず、まるで少年にも見えた。

「君か、君が専門家なのだな!私はどのように生きればいい?」

ある人は自信満々に答えた。

「まず、体調に気をつけることだ。そのためには適度な運動を行い、食べるものにも気配りがなくてはならない、そして病気に罹らないためには…」

  ある人は健康に必要なことを、全くもって正確に述べた。街行く人々は彼に敬意の眼差しを向けた。だが男は違った。男の瞳からは輝きが失われ、鼻筋には血管が浮き上がった。

「素人ではないか…」男が呟いた次の瞬間、ある人は鼻血を吹き出して地面に倒れた。

「お前は断じて正しい生き方の専門家などではない!誰が健康に生きる方法を教えろと言った!健康であること、長生きであることが、正しいことであるのは何故だ?正しい生き方を知らないなら、私の問いには口を噤んでもらおう!正しさにおいて、お前は素人に過ぎない!」

血のついた拳を震わせながら、男は唾を吐いて叫んだ。「さぁ、専門家はどこにいる!」

男の前には、多くの「専門家」があらわれた。物理、言語、法律、芸術…

全員男に殴り倒された。

「誰が運動法則について聞いた?誰が文法について聞いた?誰が刑罰について聞いた?誰が美しさについて聞いた?やはりそうだ、正しさについて、貴様らは素人ではないか!正しさの基になっている理由は何だ?何一つとして答えられていない!そもそも知らないのだ!」

もはや誰も男に近づこうとしなかった。「何も知らない」ことを自覚するよりも先に、そこには恐怖があった。

「専門家はどこだ?専門家はどこだ?専門家はどこだ?専門家はどこだ?」

たった一人、誰にも届かない音を発しながら、男は街から離れて荒野へと旅立った。

 

まあ、落ち着きなさい。~役柄と人種の問題に寄せて~

※この記事には、論じる内容の都合上、一部『ゴールデンカムイ』のネタバレを含みます。

少し前の話になる。Netflixクレオパトラ7世に関するドキュメンタリーが配信された。『アフリカン・クイーンズ:クレオパトラ』である。

 さて、この作品が批判された理由に、クレオパトラ7世の役に黒人女優が起用されたことである。このことに関して、主にエジプトとギリシアから批判が多く噴出したようである。

https://www.bbc.com/japanese/65382432.amp

クレオパトラ7世の祖先は、アレクサンドロス3世(大王)の部下プトレマイオスである。彼はマケドニア産まれであり、広義の「ギリシア人」である。

エジプトの王家となって以降、プトレマイオスの子孫は近親相姦を繰り返した。もちろんエジプトの現地人の遺伝子が入った可能性は十分にあるが、主にギリシア系と言えよう。

 

(コメディ調であるが、クレオパトラに至るまでの血統を紹介している動画があるので、貼っておく)

https://youtu.be/2gb5h0chYWo

 

ちなみに、クレオパトラ7世の妹アルシノエだとされる人骨は、母親は黒人の血を引くようである。

https://www.afpbb.com/articles/amp/2582883

ただ、クレオパトラ7世とは異母姉妹である可能性もあるだろう。(Wikipediaにおいては、母親は父親と同じプトレマイオス王家の人間である説が出典付きで示されている。興味のある人は出典を辿ってもよいだろう。)

私は、どのようなルーツを持つ人であっても、どのような歴史上の人物を演じることは自由であると考えている。ただ、キャスティングを理由とした「リアリティのなさ」という批判が起こることも想定すべきである。

『鎌倉殿の13人』では、非アジア圏のルーツを持つ人が、日本の鎌倉時代を生きた人物の役をしていた。以下に私が知る限りで示す。

実衣役:宮澤エマ氏(父親がアメリカ人)

りく役:宮沢りえ氏(父親がオランダ人)

以仁王役:木村昴氏(父親がドイツ人)

藤原兼子(卿二位)役:シルビア・グラブ氏(父親がスイス人)

管見の限りにおいては、『鎌倉殿の13人』がキャストのルーツを理由として批判されることはほとんどなかったように思える。

テルマエ・ロマエ』の実写化は、ローマ人の役を、阿部寛氏を含めた多くの日本人が行った、しかし、そこまでキャスティングに批判もなかったように思われる。(もちろんローマ人の定義は人種に直結するものではない。)このことからも、やはり批判の原因は「違和感」なのではないだろうか。例えばの話、歴史上の時代を扱った作品の織田信長役が、外見上アジア人の特徴を全く持たなかったら違和感があるだろう(何でもありファンタジーなら話は別である。)

最後に、『リトル・マーメイド』の実写について私見を述べる。この作品も、アリエル役に黒人がキャスティングされたことについて物議を醸した。

アリエル役に黒人をキャスティングしたことへの違和感の表明について、その批判が人種差別的思考に基づくといった言説もあった。

アリエルは人魚である。従ってホモ・サピエンスの中の「白人(コーカソイドの一部)」という区分を当てはめるのは無理であろう。

しかしアニメーションの中のアリエルというキャラクターの皮膚は、白みがかったものである。アニメーションの世界の実写化として、白い肌の人物がキャスティングされてほしいという願望は、十分に頷けるものである。何も、黒人そのものへの嫌悪感の表明ではない。(もちろん、そのような人もいるかもしれないが)

ちなみに、『リトル・マーメイド』はハンス・アンデルセンの『人魚姫』を元に制作されたのだから、『リトル・マーメイド』におけるアリエルの白い肌にこだわるのはおかしいという意見も私は見た。

しかし、今回実写化されたのは、アンデルセン原作の『人魚姫』ではなく、ウォルト・ディズニー社が制作した『リトル・マーメイド』である。この実写化作品そのものの原作は『リトル・マーメイド』である。

要は、違和感があるか否か、それだけではないだろうか。誰がどのような役にキャスティングされようが、私は自由だと言おう。しかし、違和感の表明もまた自由である。ましてや、素朴な違和感の表明を人種差別と結びつけるのは、作品そのものの批評を封じ込める卑怯な手段である。

作品への否定的評価をさせないために、作品の完成度の追求よりも優先して、適任な人を排除してまで特定の属性を持つ人を採用する風潮は形成されるべきではない。

私にはもう一つ懸念がある。キャスティングが、演じるキャラクターのルーツにより固定されることである。

以前、『ゴールデンカムイ』の実写化が決定した際のことである。少しばかりアシㇼパ役はどうするのかという話題が上がった。

一部には、アシㇼパ等のアイヌの役はアイヌがするべきだという意見もあった。

だが待ってほしい、アシㇼパの父ウイルクは、父親がポーランド人で母親が樺太アイヌである。彼自身は帝政ロシアに対して独立国家樹立のための反政権活動を行っており、アシㇼパの育て方にもそれが影響している。決して「アイヌのルーツ」だけでアシㇼパのアイデンティティは説明できるものではない。キロランケにしても、彼は「アイヌの血を引くタタール人」と言ったほうがいいかもしれない。

さて、アシㇼパに関して設定に忠実なキャスティングにするとなると、「ポーランドとのクォーターであるアイヌ」となろう。そのような人がどれだけいるだろう。そのような人しか受け付けないのであれば、明らかに表現の幅は狭まる。

これからの時代、表現の自由は護持されるであろうか、不安の募る毎日である。

読書案内

クレオパトラのルーツに関しては、

本村凌二・中村るい『古代地中海世界の歴史』(ちくま学芸文庫) がわかりやすいだろう。

このようなものもある。

https://www.arabnews.jp/article/middle-east/article_89919/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

無題

意図して使うべきでない所で漢字を用いているが、読者の理解を助けるためである。ご容赦願いたい。

 


我々は"正しいこと"(あらゆる意味における「真」)を知らない。故に「正しいこと」を成しているかも知っていない。また、「将来知ることが出来るか」も分からない。だが、「知ることが出来ない」と決まった訳ではない。ならば必要なのは知ろうとする為の環境の確保である。思索のための時間の確保である。「知ることができない」訳でもない以上、それは無駄だと断定出来るものではない。

だからこそ私は、制約されるものが無いという意味における、最大限の自由を人が得ることを訴える。

その正しさを求める思索の権利は、誰もが等しく得るべきである。それ故に権利の調停が行われる。だれもが思索の権利を得るためには、他者の思索の権利を奪う行為は制限されよう。しかし、それは現実には不可能な話である。今あなたが居るのと同じ場所に、他の人が居ることは出来ない。もっとミクロに言えば、ある水素原子ともう1つの水素原子は全く同じ場所には存在しえないだろう。質的に同じであるとされていても明らかな差異がある。このように考えると全く同じ状況・環境を誰もが享受出来るものではない。

では、人間という存在が、一切いなくなればどうであろう。そうなれば、人間による「正しくないこと」は成されないであろう。だが、「正しいことが成される」ことと、「正しくないことが成されない」のどちらが「正しいこと」であるのか。それもまた我々は知らないことであろう。

私の結論はいたくシンプルなものとなった。だが、他にないのだ。思索、思索、正しいことを求め、暗雲立ち込める道を思索する他にない。

選択的夫婦別姓について

元の記事は移動しました。 https://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/182932

 

 男女平等の観点から選択的夫婦別姓についての賛同意見がある。その見解"には"私は与しない。夫婦同姓に関する男女の差の解消に必要なのは「名字を男性側にあわせなければならない」という風潮の是正である。

  私が選択的夫婦別姓に賛成する理由の一つは、「どちらも名字を変えたくない」という、双方の「個人の意志」が結婚において尊重のためである。

 私が賛同する理由はもう一つある。それは「明治以前の日本の名前のありようを"現代に可能な形で"復活させるため」である。

 元々日本において名前は流動的であった。日本における「名前」が苗字・姓・氏・諱などで構成されており、名字と名前のみになったのは明治以降である。

 一応のこと(これは選択的夫婦別姓に賛同する人への忠告でもあるが)「"北条"政子」や「"日野"富子」を別姓の例として挙げるのは不適切である。それらの名称は後世に便宜的につけられた名称である。

 ただ一方で、「女性には名字(姓)がなかった」というのは誤りである。明治以前に、姓を持った女性は存在する。

 一人に県犬養橘三千代である。彼女は元明天皇大嘗祭の後に橘宿禰の姓を与えられている。その姓は子息の諸兄・佐為兄弟が受け継いだ(佐藤信 編 『古代史講義』氏族篇)。

 二人目に、藤原良房の妻、源潔姫である。潔姫は嵯峨天皇の皇女であり、源姓を与えられ臣籍降下した人物である(倉本一宏『藤原氏』)。

 自由で流動的な名前、日本的な伝統と言えるのではないだろうか。

 もっとも、ヨーロッパを模倣して夫婦同姓を導入したのだから、ハプスブルク=ロートリンゲンのような婚姻した両家の名字を合わせる複合姓の導入、および明治以前の出家者のように名字を名乗らないことにも私は賛成する。

歴史教科書について

歴史教科書の記述について、考えたことを述べるとする。

 歴史教科書には、自虐史観と呼ばれる批判が寄せられることがある。「反省させるだけで自国に誇りが持てない」教科書であるとのことである。

 また逆に、日本の罪を十分に記述していないという批判もある。太平洋戦争などにおける日本軍の行為の記述に関しての批判が多くを占める。

 だが、誇りも反省も客観性を欠く情動であり、史料を読み解いて史実を探求することの障害にもなりえる。マルクス主義的唯物・進歩史観も、皇国史観も、イデオロギーに支配された概念であり、一定の枠組みに当てはめて事象を説明しようとする。そのため、その枠組みから外れた概念は歪さを伴って記述されることもある。皇国史観の下では、北条義時後鳥羽上皇流罪にした"逆賊"という主観的な判断をされた。

 そのため、

①いつ何が起こったか

②なぜそれが起こったのか(諸説を併記)

③その根拠は何か

④出典

の4つを明記する形式にして、どのような受け取り方をするのかは各々に委ねることにすることが、歴史教科書のあり方として最も適切であると考える。