伯樂雑記

政治やルールなどへの考えやぼやきを書きつけるブログです。

無題

意図して使うべきでない所で漢字を用いているが、読者の理解を助けるためである。ご容赦願いたい。

 


我々は"正しいこと"(あらゆる意味における「真」)を知らない。故に「正しいこと」を成しているかも知っていない。また、「将来知ることが出来るか」も分からない。だが、「知ることが出来ない」と決まった訳ではない。ならば必要なのは知ろうとする為の環境の確保である。思索のための時間の確保である。「知ることができない」訳でもない以上、それは無駄だと断定出来るものではない。

だからこそ私は、制約されるものが無いという意味における、最大限の自由を人が得ることを訴える。

その正しさを求める思索の権利は、誰もが等しく得るべきである。それ故に権利の調停が行われる。だれもが思索の権利を得るためには、他者の思索の権利を奪う行為は制限されよう。しかし、それは現実には不可能な話である。今あなたが居るのと同じ場所に、他の人が居ることは出来ない。もっとミクロに言えば、ある水素原子ともう1つの水素原子は全く同じ場所には存在しえないだろう。質的に同じであるとされていても明らかな差異がある。このように考えると全く同じ状況・環境を誰もが享受出来るものではない。

では、人間という存在が、一切いなくなればどうであろう。そうなれば、人間による「正しくないこと」は成されないであろう。だが、「正しいことが成される」ことと、「正しくないことが成されない」のどちらが「正しいこと」であるのか。それもまた我々は知らないことであろう。

私の結論はいたくシンプルなものとなった。だが、他にないのだ。思索、思索、正しいことを求め、暗雲立ち込める道を思索する他にない。