伯樂雑記

政治やルールなどへの考えやぼやきを書きつけるブログです。

女系天皇容認論 分割(下)

分割版女系天皇容認論の最後である。

養老律令から

養老律令の継嗣令には、「天皇の兄弟、皇子は親王とすること{女帝の子もまた同じ}」とあり、女性天皇に子どもがいる場合を想定している。親王になれるというのである。女性天皇の配偶者に関しての規定も書かれていない。形式上は明治維新まで存在した法令である。養老律令に従えば、先例がなくとも、女系天皇を認めていいことになるのではなかろうか。

前述の継嗣令から抜粋した文章の原文は「女帝子亦同」である。これを、天皇の子で女性も男性と同じく親王とする。という解釈もあるが、そうだとしても、施行された年の天平宝字元年(757年)は阿倍女帝の即位中である。施行時の天皇が規定事項の例外であろうか。阿倍女帝に子が産まれた場合も想定されていると考えるのが自然ではないだろうか。何より、男性でも女性でも天皇天皇である。

Y染色体重視論及び王朝交代論への反論

Y染色体の継承が皇位継承ではない。これは自明である。現在の皇室は家系図を見る限り継体天皇Y染色体は受け継いでいることとなる。しかし、皇室は「Y染色体のために」皇位を継承してきたわけではない。いわば偶然そうなったのである。皇室の祖先をたどれば、行き着くのはアフリカの一人のホモ・サピエンス・サピエンスであろう。皇室は神話の延長線上に正当性があり、Y染色体を持ちだすことは神話の否定であり、皇室そのものの正当性と否定である。天皇の正当性を日本国憲法の「国民統合の象徴」という言葉に求めるならば、尚更Y染色体は問題外である。日本国憲法によって定められた皇室典範に基づく皇位継承に、Y染色体について書かれてはいないはずである。もちろんのこと、それ以前の皇位継承についての記録に一度たりともY染色体が登場したことはないはずである。Y染色体は産まれてくる子どもの性別を決めるものであって、それ自体が大事なのではない。Y染色体の有無そのものは、生物学上の先祖と子孫の関係とは無関係である。

次に、女系天皇の即位によって王朝交代が起こるという意見に反論する。血は繋がっていながらも女系継承が行われることで王朝が変わるという意見の根拠はヨーロッパの王室にある。しかし、ヨーロッパ王室の王朝名が変わるのは女系継承からではなく、家名が変わったからである。フランス王は、ユーグ・カペー以降は王室が無くなるまでずっとユーグの男系子孫である。しかし、王朝名はカペー朝ヴァロワ朝ブルボン朝オルレアン朝と変わっている。これは、家名の違う分家が継承したからである。イングランドプランタジネット朝からランカスター朝への継承も(簒奪とはいえ)同様である。オルレアン朝に関しては家名がブルボン=オルレアン家という、ブルボンの名を冠していても王朝の呼ばれ方は変わった。イギリスのウィンザー朝は、王室が名字を名乗ることを決めたがための王朝名の変更であり、男系か女系かは無関係である。これらの王朝名の変化は、ただ単に家名が変わったからだけではないだろうか。皇室は名字を持たない。それならば、天皇が名字を名乗らず、血統による継承を続けていけば、王朝は変わらないのではなかろうか。

ヨーロッパで女系継承で王朝交代が起こらなかった例としてはハプスブルク朝とロマノフ朝が挙げられる。それぞれ女系継承によって複合姓となり、ハプスブルクロートリンゲン朝と、ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝となったが、その後の王朝もハプスブルク家の歴史、ロマノフ家の王朝の歴史と見なされる。ロレーヌ(ロートリンゲン)家がハプスブルク家の持つ帝位、王位等を継承したとは見なされない。ハプスブルクロートリンゲン朝の最初の皇帝でロレーヌ家出身のフランツ一世は、あくまでハプスブルク家のマリア・テレジアの夫という認識をされていた。女系であろうとも、それまでの王朝の延長線上である。そうでもなければ、「ロマノフ朝三百周年」という言葉がロシア帝国で言われることもなかっただろう。

以上の点から、女系継承は王朝交代に該当しないと私は主張する。

旧宮家復帰案

旧宮家の方の復帰については、私は慎重な立場である。先例としては源氏から皇族に復帰した経験のある宇多天皇と、その子で父が源氏であったときに産まれた醍醐天皇である。しかし、このときは政情によって皇統の本流が変化したことを考慮すべきである。藤原基経陽成天皇を退位させ、母方の従兄弟であった時康親王光孝天皇として即位させたことに注目する。光孝天皇は自身を中継ぎだと思っていたらしく、陽成院の弟の家系が跡を継ぐと想定して皇子女を臣籍降下させていたが、基経と高子(陽成院の母)は同母兄妹ながら不仲だったらしく、光孝天皇の子孫の一部が皇族に復帰し、その系統がその後の皇統に続くこととなった。このように、光孝天皇の子や孫が皇族になったことは異例の事態であり、当時だったからこそ可能であったと私は考える。

臣下の身分で産まれて皇族、天皇となったのは光孝天皇の孫、醍醐天皇のみである。しかし、源定省(後の宇多天皇)、維城(後の醍醐天皇)父子が皇族になった当時は定省の父、光孝天皇が在位中であった。とても皇室に近かったのである。当時は天皇に近い身分と遠い身分が臣下の中に存在していた。現在は天皇、皇族、国民のみである。そのような意味では区分はより明確になったとも言える。平安時代の上流公家と現在の国民を同等に考えるべきではないだろう。

仮に旧宮家の方を復帰させるのであれば、本人の同意が必要であり、強制は論外である。あまりにも立場が重い。そして、国民の大多数の同意が必要である。

宇多・醍醐両天皇を先例とするならば、民間人から皇族になるものは、存命の天皇(上皇でもいいかもしれないが)の直系子孫とその配偶者に限るべきではないだろうか。そして、一定の年齢に達してから皇族になった者に皇位継承権を認めないなどの規定が必要であろう。

以上の点から、私は女系天皇は皇室の伝統に反することはない、認められるものであると私は考える。