伯樂雑記

政治やルールなどへの考えやぼやきを書きつけるブログです。

女系天皇容認論

現在、皇位継承者の減少が顕著である。女系天皇を認めるかが最大の論点であろう。私は女系継承に賛成の立場である。以下にその理由を述べる。

天皇の正当性から

天皇の正当性は日本神話に由来する。イザナキ・イザナミ夫妻(以下、夫妻)が天津神から国を治めることを命じられ、そのプランが夫妻の子孫に受け継がれ、今上天皇陛下に至るという一つのストーリーがあってのものである。「神武天皇から続く男系」と言っても、神武天皇は夫妻の子孫であるために国を治める権利を持っているわけであり、夫妻から神武天皇までの系図は男系女系で割り切れるものではない。古事記に寄れば、イザナキの娘で神武天皇の祖先であるアマテラスは母親がおらず、また、アマテラスの五柱の子どもには父親がいない。つまりは、神武天皇の五代前の男系祖先は存在しないこととなる。以上の点から男系であることは国を治める権利として必要ではないと私は考える。

皇統譜と実際の皇位継承のズレ

今の歴代天皇の代数は明治時代に整理されたものである。神功皇后(神皇正統記などに歴代天皇として記載)、飯豊青皇女(扶桑略記、本朝皇胤紹運録などに天皇として記載)、日本武尊菟道稚郎子市辺押磐皇子などは風土記天皇として記載されていたりもする。(一般的な見解であったかは別である。)弘文天皇も即位したという確証はない。また、南朝が正当であると明確に決まる前までは、光厳天皇光明天皇崇光天皇後光厳天皇後円融天皇が歴代天皇として数えられてきた。(一応の話だが、現在でも北朝天皇は「天皇」として認められている。)

このように、皇位継承の歴史と代数にはズレが生じている。知識として頭の片隅においておくのも良いだろう。

持統天皇からの皇統

古代日本の皇位継承において、持統天皇は重要な人物である。持統天皇の母親は遠智娘(蘇我倉山田石川麻呂の娘)であり、天智天皇の皇女の中では高位であった。即位後は、淳仁天皇を除いて、平城天皇まで、持統天皇の子孫もしくはその配偶者が皇位を継承している。

42代文武天皇(持統天皇の孫)

43代元明天皇(持統天皇の皇子の妻)

44代元正天皇(持統天皇の孫、文武帝の姉)

45代聖武天皇(持統天皇の曾孫)

46代孝謙天皇(持統天皇の玄孫、聖武帝の娘)

48代称徳天皇(孝謙天皇と同一人物)

49代光仁天皇(皇后は聖武天皇の娘)

50代桓武天皇(妃は聖武天皇の孫)

51代平城天皇(妃の1人は持統天皇の昆孫)

後に光仁天皇の皇后、井上内親王は皇后位を剥奪され、子どもの他戸親王も皇太子位を廃された。そして、他戸親王の異母兄、山部親王(後の桓武天皇)が皇太子となった。桓武天皇の妃の1人は光仁天皇井上内親王の間に産まれた異母妹、酒人内親王である。そして、桓武天皇と酒人内親王の間に産まれた朝原内親王は異母兄の安殿親王(後の平城天皇)の妃となっている。持統系皇族(井上内親王母子)

が廃されたことで即位できた桓武天皇であるが、自らは持統系の皇統の継承者としての婚姻関係の中に身を置いている。嫡子にまで持統天皇の子孫を嫁がせていることも桓武天皇の徹底ぶりを感じる。光仁桓武・平城・三帝による親子三代継承は持統天皇の直系子孫によって行われていない。しかし、一度政争の中で(偶然とも考えられるが)排除されかけた持統系を自らの系統に組み込もうとしたのではないだろうか。

持統天皇の子孫は、天武天皇の子孫である。それをもって奈良時代の皇統は天武天皇の子孫による男系継承で独占されていたと考える意見もあるだろう。しかし、天武天皇の子孫であって、持統天皇の子孫でない皇族は、持統天皇の子孫との婚姻関係がない限り、皇位継承者の有力候補となることが(長くの間)少なかった。

長屋王(天智・天武両天皇の孫)が自害に追い込まれた際、共に自害したのは吉備内親王(草壁皇子の娘)とその間に産まれた子であり、側室との間の子は後に赦免されている。それは、長屋王と持統系皇族との血縁的な繋がりが大きく薄まった時点で、長屋王の家系の皇位継承の可能性がほとんど消失したと藤原氏が判断したのではないだろうか。長屋王は武市皇子(天武天皇の第一皇子)と御名部皇女(天智天皇の皇女)の子であり、母方の祖母(武市皇子の母)の身分の低さを母親の身分の高さでフォローされた皇族であった。母方の祖母は持統天皇の叔母(遠智娘の妹、姪娘)でもある。それほどの家系であっても、持統系皇族との直接的血縁関係を失った時点で皇位継承の候補から外れたと私は考える。謀反の疑いがかけられたことが理由でないと思う理由としては古人大兄皇子が謀反の疑いで処刑されたが、娘の倭姫王が天智天皇の皇后になったことを挙げる。

葛野王の発言と「持統天皇の」直系

そして何より、継承についての葛野王(天智・天武両天皇の孫の一人)の発言は大きな意味を持っている。持統天皇の次の天皇の決定は、葛野王が直系継承を望ましいとした発言があってのことである。このことから持統天皇は 珂瑠皇子(後の文武天皇)の即位までの中継ぎではないと私は考える。注目するのは、決定された事項が「持統天皇」の直系継承であるということである。もちろんのこと、持統天皇の配偶者であった天武天皇崩御している。つまり、天武天皇の次代を決めたわけではない。持統天皇の在位中に直系継承が決定したということである。神話におけるアマテラスの立場にも似ているのではないだろうか。(モチーフにしたという説も一応ある)

ただ天武天皇の男系子孫による継承が続いたことが、男系継承と見なすのは単純に思える。桓武・平城両天皇は前述の通り、持統天皇の子孫を妃の一人に持った。だが、天武天皇の子孫であって、持統天皇の子孫でない人物は妃以下の配偶者の身分にすら置いていない。天智天皇天武天皇の両方の血を引く皇族は多数存在した。だが、そのような人物であっても、持統天皇の子孫が配偶者にいなければ皇位継承候補に挙がることは少なかった。持統天皇の姉、大田皇女(天武即位前に薨去)と天武天皇の間の子には大来皇女大津皇子がいた。氷上塩焼のように、兄弟(道祖王)刑死しても皇位継承候補に担がれた皇族出身者は存在する。しかし、大田皇女が持統天皇の同母姉であるにも関わらず、処刑された大津皇子の子孫及び近親は継承候補にすら挙がっていない。また、大きな影響力を持ったという記録も残っていない。近親が罪人とされた倭姫王や、父親(大友皇子)が天武天皇に敗れて自害した葛野王でも高位にあったはずなのにである。

天武天皇崩御後に持統天皇が即位する。

持統天皇以降の皇位継承葛野王の発言によって直系継承に決まる。

光仁桓武・平城三帝の持統系皇族との婚姻で光仁天皇の子孫が持統系の流れの一つと見なされることとなった。

そのため、持統天皇の子孫の血を注いで正統性を補強する必要性が少なくなった。

そのようなことで、現在の皇室は持統天皇の系統で続いていると私は考える。

⑤中継ぎとしての天武天皇男系

持統系による継承とした場合、道祖王淳仁天皇が例外となる。この両者は持統天皇の子孫でなければ、その配偶者でもない。私は中継ぎであると考える。

道祖王聖武太上天皇の遺言により皇太子に立てられたが、阿倍女帝(孝謙/称徳天皇。便宜上、諱+女帝と表記する)によって、素行不良を理由に廃位された。道祖王の祖父は天武天皇で、祖母は五百十娘(藤原鎌足の娘)である。阿倍女帝の母親安宿媛(光明皇后)は鎌足の次男不比等の娘であり、また、父方の曽祖父も不比等である。しかし、道祖王の廃位には、当時の藤原氏の当主格藤原豊成(不比等の孫)も反対していない。大きな反対もなく廃位が決まったのも、そこまで重要視されておらず、「中継ぎとして」不適格という判断だったのではないだろうか。

また、道祖王の母親は不明である。母親の身分が皇位継承者候補になるうえで重要であったが、記録に残らない母親を持つ者の子孫が皇位をその後も継承していくとは思えない。道祖王橘奈良麻呂の乱への関与が発覚し刑死したが、同じく処罰された皇族、黄文王安宿王兄弟は両親が記録に残っている(ちなみに長屋王藤原不比等の娘、長俄子の子)。子の記録がないことも、道祖王の子孫も重要視されなかったからだと私は考える。子がいなかったのなら、成年で子のいない皇族の子孫に皇位を継がせることを想定しただろうか。以上の点から、道祖王は一代限りの天皇候補であり、それすらも却下されたと私は考える。

次に淳仁天皇である。彼の父親は舎人親王(天武天皇の皇子)で、祖母は新田部皇女(天智天皇の皇女)であり、天智・天武天皇の血を引く。母親は当麻山背という人物である。山背の父親、当麻老は従五位上である。欽明天皇以降に、母親が皇族か蘇我氏藤原氏以外の皇族で天皇になったのは淳仁天皇までには弘文天皇のみである(弘文天皇は正式に即位したか疑問が持たれる)。当麻氏が権力を握ったという記録はないはずである。藤原仲麻呂の推挙がなければ、道祖王の代わりに皇太子になることはなかっただろう。「道祖王の」代わりの皇太子であることからも、中継ぎ天皇の一人だと私は考える。

もう一つの理由は配偶者である。淳仁天皇の配偶者は粟田諸姉以外に知られていない。諸姉は仲麻呂の長男、真従の妻であり、真従の死後に仲麻呂のすすめで大炊王(後の淳仁天皇)の妻となった。諸姉の位階は従五位下であったが、藤原不比等の娘、宮子(文武天皇の妃)は子の聖武天皇の即位前には従二位であった。大炊王と諸姉の婚姻は、仲麻呂が家系的な繋がりを深めるために行わせたものであろうが、仲麻呂には実の娘もいた。実の娘、つまりは宮子と同様に「藤原氏の娘」を嫁がせ、淳仁天皇に箔をつけさせることもできたはずである。仲麻呂(その時には改名し藤原恵美押勝)が反乱を起こした際に擁立したのは氷上塩焼(道祖王の兄、聖武天皇の娘、不破内親王の配偶者)である。一度即位経験のある者よりも弟が罪人とされて刑死したが、持統天皇の子孫の配偶者を優先している。

以上の点から道祖王淳仁天皇は中継ぎであると私は結論づける。

養老律令から

養老律令の継嗣令には、「天皇の兄弟、皇子は親王とすること{女帝の子もまた同じ}」とあり、女性天皇に子どもがいる場合を想定している。親王になれるというのである。女性天皇の配偶者に関しての規定も書かれていない。形式上は明治維新まで存在した法令である。養老律令に従えば、先例がなくとも、女系天皇を認めていいことになるのではなかろうか。

前述の継嗣令から抜粋した文章の原文は「女帝子亦同」である。これを、天皇の子で女性も男性と同じく親王とする。という解釈もあるが、そうだとしても、施行された年の天平宝字元年(757年)は阿倍女帝の即位中である。施行時の天皇が規定事項の例外であろうか。阿倍女帝に子が産まれた場合も想定されていると考えるのが自然ではないだろうか。何より、男性でも女性でも天皇天皇である。

Y染色体重視論及び王朝交代論への反論

Y染色体の継承が皇位継承ではない。これは自明である。現在の皇室は家系図を見る限り継体天皇Y染色体は受け継いでいることとなる。しかし、皇室は「Y染色体のために」皇位を継承してきたわけではない。いわば偶然そうなったのである。皇室の祖先をたどれば、行き着くのはアフリカの一人のホモ・サピエンス・サピエンスであろう。皇室は神話の延長線上に正当性があり、Y染色体を持ちだすことは神話の否定であり、皇室そのものの正当性と否定である。天皇の正当性を日本国憲法の「国民統合の象徴」という言葉に求めるならば、尚更Y染色体は問題外である。日本国憲法によって定められた皇室典範に基づく皇位継承に、Y染色体について書かれてはいないはずである。もちろんのこと、それ以前の皇位継承についての記録に一度たりともY染色体が登場したことはないはずである。Y染色体は産まれてくる子どもの性別を決めるものであって、それ自体が大事なのではない。Y染色体の有無そのものは、生物学上の先祖と子孫の関係とは無関係である。

次に、女系天皇の即位によって王朝交代が起こるという意見に反論する。血は繋がっていながらも女系継承が行われることで王朝が変わるという意見の根拠はヨーロッパの王室にある。しかし、ヨーロッパ王室の王朝名が変わるのは女系継承からではなく、家名が変わったからである。フランス王は、ユーグ・カペー以降は王室が無くなるまでずっとユーグの男系子孫である。しかし、王朝名はカペー朝ヴァロワ朝ブルボン朝オルレアン朝と変わっている。これは、家名の違う分家が継承したからである。イングランドプランタジネット朝からランカスター朝への継承も(簒奪とはいえ)同様である。オルレアン朝に関しては家名がブルボン=オルレアン家という、ブルボンの名を冠していても王朝の呼ばれ方は変わった。イギリスのウィンザー朝は、王室が名字を名乗ることを決めたがための王朝名の変更であり、男系か女系かは無関係である。これらの王朝名の変化は、ただ単に家名が変わったからだけではないだろうか。皇室は名字を持たない。それならば、天皇が名字を名乗らず、血統による継承を続けていけば、王朝は変わらないのではなかろうか。

ヨーロッパで女系継承で王朝交代が起こらなかった例としてはハプスブルク朝とロマノフ朝が挙げられる。それぞれ女系継承によって複合姓となり、ハプスブルクロートリンゲン朝と、ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝となったが、その後の王朝もハプスブルク家の歴史、ロマノフ家の王朝の歴史と見なされる。ロレーヌ(ロートリンゲン)家がハプスブルク家の持つ帝位、王位等を継承したとは見なされない。ハプスブルクロートリンゲン朝の最初の皇帝でロレーヌ家出身のフランツ一世は、あくまでハプスブルク家のマリア・テレジアの夫という認識をされていた。女系であろうとも、それまでの王朝の延長線上である。そうでもなければ、「ロマノフ朝三百周年」という言葉がロシア帝国で言われることもなかっただろう。

以上の点から、女系継承は王朝交代に該当しないと私は主張する。

旧宮家復帰案

旧宮家の方の復帰については、私は慎重な立場である。先例としては源氏から皇族に復帰した経験のある宇多天皇と、その子で父が源氏であったときに産まれた醍醐天皇である。しかし、このときは政情によって皇統の本流が変化したことを考慮すべきである。藤原基経陽成天皇を退位させ、母方の従兄弟であった時康親王光孝天皇として即位させたことに注目する。光孝天皇は自身を中継ぎだと思っていたらしく、陽成院の弟の家系が跡を継ぐと想定して皇子女を臣籍降下させていたが、基経と高子(陽成院の母)は同母兄妹ながら不仲だったらしく、光孝天皇の子孫の一部が皇族に復帰し、その系統がその後の皇統に続くこととなった。このように、光孝天皇の子や孫が皇族になったことは異例の事態であり、当時だったからこそ可能であったと私は考える。

臣下の身分で産まれて皇族、天皇となったのは光孝天皇の孫、醍醐天皇のみである。しかし、源定省(後の宇多天皇)、維城(後の醍醐天皇)父子が皇族になった当時は定省の父、光孝天皇が在位中であった。とても皇室に近かったのである。当時は天皇に近い身分と遠い身分が臣下の中に存在していた。現在は天皇、皇族、国民のみである。そのような意味では区分はより明確になったとも言える。平安時代の上流公家と現在の国民を同等に考えるべきではないだろう。

仮に旧宮家の方を復帰させるのであれば、本人の同意が必要であり、強制は論外である。あまりにも立場が重い。そして、国民の大多数の同意が必要である。

宇多・醍醐両天皇を先例とするならば、民間人から皇族になるものは、存命の天皇(上皇でもいいかもしれないが)の直系子孫とその配偶者に限るべきではないだろうか。そして、一定の年齢に達してから皇族になった者に皇位継承権を認めないなどの規定が必要であろう。

以上の点から、私は女系天皇は皇室の伝統に反することはない、認められるものであると私は考える。